現地からのレポート

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南信州山城物語 “織田氏による甲州征伐の道を辿る”(11/27)催行報告

令和41127()に、「南信州山城物語織田氏による甲州征伐の道を辿る~伊那大島城・飯島城・一夜の城・高遠城~」が催行されました。
天気にも恵まれ、晩秋の伊那谷の山城を訪れるためには絶好のコンディションになりました。南信州の山城を訪れるツアー「南信州山城物語」は、木々の葉も落ち、土の城である山城の堀や土塁など城の構造が良くわかる時期(11月下旬)に実施しております。今回は、伊那谷における天正10年(1582年)、織田信忠・信長の軍勢が甲斐・武田氏討伐の道を辿ることをテーマに、織田軍が落城させた伊那大島城、飯島城、高遠城、また高遠城を攻める際に織田軍が一夜で築いたとされる「一夜の城」を専門ガイドさんと現地ガイドの案内で訪れました。

三日月堀など武田流縄張り傑作とも言われる伊那大島城をガイドの酒井さんの案内で訪れました。最初、この時期特有の深い霧に包まれていましたが、次第に晴れて深い堀や土塁、そして2重の三日月堀などが良く分かりました。織田勢の侵攻の際は、城将だった武田信廉(信玄弟)や日向氏など何の抵抗もせず逃げてしまったそうです。それにしても城の構造が今でもしっかり残っている素晴らしい城跡だと感じました。

伊那大島城を難なく攻略した織田信忠の軍勢でしたが、武田氏を恐れる織田信長からは慎重に行動するようにとの指示もあり、大島城に半月ほど滞在していたようです。その後、軍を進め飯島城に入りました。飯島丈は、段丘上段の本城地区、またその下の城下町部分、さらに下段の城山地区に分かれた巨大な山城でその大きさに驚かされます。見学したのは天竜川に近い城山地区ですが、天竜川端に築かれた「城山」と、その手前にある深く、幅の広い巨大な堀「古城窪」には皆さんとても驚いていました。こうした強大な山城の築城については、領主が領民を強制的に奴隷のように働かせて築いたのではなく、城は領民にとっていざという時に立て籠もる「避難所」だった、つまり領民にとっては自らの安全を図るための施設だったという考え方、研究が増えてきているとの話をガイドの方から聞きました。なるほどと納得のいく説明でとても勉強になりました。

飯島城跡から伊那市富県貝沼原にある「一夜の城」の途中にある駒ヶ根市中沢の「島小カフェ」にて人気のランチメニューをいただきました。古民家と蔵をリノベしたお洒落な雰囲気の中で、前菜、主菜のローストビーフ丼、デザートのコース料理を堪能しました。

織田信忠軍による高遠城攻撃の前に、織田軍が一夜で築いたとの言い伝えが残る「一夜の城」を伊那市教育委員会の方の案内で見学しました。隣接する道の拡幅工事の事前調査の際に行った発掘調査の結果、周囲には深く幅の広い堀の存在が判明したそうで、陣城には土塁(堡塁)は築いても堀は築かなかったことから考えて、これは元々あった土豪の館であり、天正103月に織田軍が高遠城攻めの前日に一夜を陣として利用した城である可能性が高いそうです。それにしても歴史浪漫に富んだ大事な史跡だと思いました。

天正103月、織田軍に最後の抵抗を見せた武田方、特に県歌「信濃の国」の歌詞にも登場する仁科五郎盛信と織田軍との激戦の地です。高遠城は、江戸時代に代々の藩主が居城としたため、戦国時代とはだいぶ変わっていますが、ガイドの案内で激戦の様子を想像することができました。

高遠城跡を見学した後、学芸員さんの案内で、高遠城の戦いに関する展示を見学しました。高遠町出身の空間デザイナー、池上典氏が描いた高遠城の攻防を描いた巨大な絵はとても見応えがありました。また、江戸時代に高遠藩に遠流となり、この地で生涯を終えた絵島(江戸城大奥年寄)の囲み屋敷も学芸員の案内で見学し、絵島の暮らしやその生涯、また絵島を預かった高遠藩の苦労などに想いに馳せました。

毎年好評をいただいている南信州の山城を訪ねるツアー「南信州山城物語」。今回は、天正10年に武田征伐のため伊那谷を攻略した織田信忠の進軍ルートを辿り、織田軍が攻略した伊那大島城、飯島城、高遠城攻めのために陣を敷いた一夜の城、そして両軍の激戦地をなった高遠城を専門ガイドと現地ガイドの案内で訪れました。天正103月に織田軍の侵攻による武田氏の滅亡、またその3か月後の62日「本能寺の変」による織田信長の死去など、伊那谷は歴史の大きな転換点の舞台でもありました。そこには「一夜の城」など多くの謎を秘めている場所が点在しており、また飯島城の広大な城域をどうやって、誰が築いたのか?など謎が深まる場面もありました。こうした謎を探ることが歴史探訪の醍醐味だと思います。

今回は、多くの方にご参加いただき誠にありがとうございました。

Staff ゆっきー

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