南信州に残る戦国武将の書状に迫る(11/16)催行報告
令和4年11月16日(水)に、「南信州に残る戦国武将の書状に迫る~武田信玄・織田信忠・徳川家康、そして南信州の国衆たち~」が催行されました。
中世文書(鎌倉~安土・桃山時代)は、江戸時代以降に書かれた文書に比べ、現在まで残っていることは稀で大変貴重な史料ですが、南信州は戦国武将が書いた貴重な書状が寺院や資料館に残っています。今回、各所のガイドの案内で武田信玄や織田信忠、徳川家康など錚々たる戦国武将の書状や彼らに従った知久氏、下條氏、松岡氏などの書状もご覧いただきました。
ご住職に宝物館をご案内いただき、武田信玄が比叡山延暦寺の正覚坊に送った書状で、修行について教えを請うこと、瑠璃寺の所領を安堵すること、上杉謙信の祈願を行っていたことは遺恨に思わないことなどが記されていました。また今回特別に、本尊である薬師三尊像も拝観させていただきました。瑠璃寺の長い歴史の重みを感じました。
市田郷の領主・松岡頼貞が天正年間に家臣に所領を与えた貴重な文書2点を館長さんの案内で拝見しました。しかし、松岡氏は天正年間、徳川氏と豊臣氏の争いに巻き込まれ、徳川氏により改易になりました。資料館では、漂泊の詩人・井上井月特別展が開かれており、井上井月に造詣の深い唐木孝治さんから詳しく興味深い話を聞きました。
武田信玄の伊那谷侵攻により滅ぼされた知久頼元(神之峰城主)の子息で、徳川氏に従って神之峰城主に復活した知久頼氏が徳川家康から本領を安堵された書状、また頼氏を「従四位下」に任じた正親町天皇の命令書「口宣案(くぜんあん)」など貴重な文書を館長さんの案内で拝見しました。知久頼氏は家康に忠勤を励みながら、1年後の天正11年には家康から浜松に呼び出され、自刃させられ知久氏は再度滅亡することになります。
天正10年2月、武田討伐のため織田信忠(信長嫡男)の軍勢が伊那谷に侵攻してきます。軍勢は略奪、放火など乱暴を働くことが多く、寺社や郷や村では、そうした乱暴を禁止する文書「禁制」を侵攻軍の大将に書いてもらい自己の安全を確保しました。今回拝見したのは織田信忠の禁制で、信忠の名前は記されておらず、花押のみ記されていますが、信忠の他の文書史料から信忠の花押であることが過去の研究の成果で判明し、「織田信忠禁制」として同寺に大切に伝えられています。
下條氏の菩提寺である龍嶽寺には、下條氏に送った徳川家康の書状15点が所蔵されており、今回特別に15点全て拝見することができました。天正10年6月「本能寺の変」のあと信濃・甲斐をめぐる徳川氏・北条氏・上杉氏の争い「天正壬午の乱」において、家康が伊那谷の旗頭として頼りにした下條氏に対する細かい指示や所領の安堵など具体的で豊富な内容が書かれていました。しかし下條氏は、徳川家康に忠勤を励みながらも些細なこと(上田城攻めの際の失火)で謀反を疑われ、松岡氏、知久氏同様、徳川家康により滅ぼされることになってしまいます。
平沢文書は、戦国時代から明治時代にかけて飯田市下久堅虎岩の庄屋である平沢家に伝わる3,800点を数える文書群で長野県宝に指定されています。その中から戦国~安土桃山時代の文書10点ほどを特別に拝見しました。最初、飯田市歴史研究所の羽田研究員から平沢文書について詳しい説明をしていただきました。天正10年~11年という短い期間ですが、神之峰城主の知久頼氏が家臣・平沢氏に領地を宛行った書状、また天正17年の検地帳「太固朱引検地帳」など大変貴重なものばかりでした。
今回のツアーでは、武田氏、織田氏、徳川氏など南信州に残る錚々たる戦国大名の書状や戦国末の動乱の中、巨大勢力と言える戦国大名に従いながらも勢力争いに巻き込まれ滅亡した知久氏、下條氏、松岡氏に係わる書状もご覧いただきました。そこからは彼らが戦国動乱の中で生き抜こうとした証を直接感じることができたのではないでしょうか?
南信州には、山城などの城郭や寺社、関所・番所跡などの歴史資源が多く残されていますが、戦国武将の残した文書史料も貴重な歴史・文化資源と言えます。今後もこうした歴史、文化資源を巡るツアーを実施して参りますので、是非その際には多くの方にご参加いただければ幸いです。
今回は、多くの方にご参加いただき誠にありがとうございました。
Staff ゆっきー