江間北条氏の所領・伊賀良庄に鎌倉武士の足跡を辿る(6/25)催行報告
江間北条氏の所領・伊賀良庄に鎌倉武士の足跡を辿る(6/25)
「期間限定」に関するレポート
令和4年6月25日(土)に「江間北条氏の所領・伊賀良庄に鎌倉武士の足跡を辿る」が催行されました。
今年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の放映に合わせて、ドラマの主人公である北条義時の子孫・江間北条氏が地頭として支配した伊賀良庄を中心に、「鎌倉武士」の足跡を南信州に辿るツアーです。
長源寺のご住職から、四条金吾頼基が信奉する日蓮上人に殿岡から「串柿」(市田柿)を送った話や四条金吾顕彰碑の建設におけるご苦労など伺いました。また地元の方から伊賀良庄の荘務を行った公文所の位置などお話を伺いました。
開善寺は以前から小笠原貞宗が開いた寺と考えられてきましたが、南北朝時代の史料から鎌倉時代末に鎌倉北条氏の一族・江間北条氏が開いた寺であることが判ってきたそうです。飯田市美術博物館の学芸員から開善寺の魅力を含めて案内していただきました。
小笠原氏は、武田氏と同じ甲斐源氏の流れですが、鎌倉幕府滅亡後に江間北条氏に代わって伊賀良庄の領主になりました。小笠原氏と言えば、弓馬術礼法を継承する鎌倉武士の典型とも言われます。ご案内の方から書院の構造について話をお聞きしました。
ここの名物でもある蕎麦や豚しゃぶなどの料理を味わい、お土産の買い物もしました。
下條村の山田河内地区には、木曽義仲の愛妾・山吹姫の墓と伝えられる葺石が盛られた塚があります。義仲が近江粟津で戦死し、京都からこの地に逃れた山吹姫とその子孫は、この地で脈々とその血筋を守っているとのことでした。
飯田市龍江大平地区には、木曽義仲の乳母がこの地に逃れ亡くなったとされる一石五輪塔と乳母の念持仏と伝えられる平安時代の薬師如来立像が地元の小木曽一族の方々によって大切に守られています。地元のお二人の方から詳しいお話を伺いました。
上郷飯沼の田中八幡宮では、鎌倉権五郎景正が「後三年の役」で負傷した目をここの池で洗い、それ以降この池のイモリは片目になったとされる「うらみの池」を、また雲彩寺の鎌倉権五郎の宝篋印塔と雲彩寺古墳の石室を地元の研究者の方の案内で見学しました。
南信州、特に中世に存在した「伊賀良庄」に残る「鎌倉武士」の足跡を様々な角度から訪ねるツアーとなりました。伊賀良庄は、後醍醐天皇(大覚寺統)の重要な皇室領であったこと、鎌倉時代に支配権力の頂点にあった鎌倉北条氏の一族・江間北条氏の所領(地頭職)であったこと、南北朝時代以降は、清和源氏の中で主要な位置を占める甲斐源氏の小笠原氏の随一の所領であったことなど、地方の庄園の中でも際立った歴史を持つ庄園であることが今回のツアーでご理解いただけたのではないでしょうか。そこに木曽義仲ゆかりの地、また鎌倉の地を開拓した開発領主である鎌倉氏、鎌倉権五郎景正の伝説がまた違った側面を見せてくれているように思います。
訪れる場所が多く暑い中で大変でしたが、南信州のまだまだ知られていない歴史の一端に触れていただけたのではないかと思います。今回は、多くの方にご参加いただき誠にありがとうございました。
Staff ゆっきー