路傍におわす野の神々たちと伊那谷の富士信仰とは(12/12)催行報告
路傍におわす野の神々たちと伊那谷の富士信仰とは (12/12)
「期間限定」に関するレポート
令和3年12月12日(日)に、”南信州ふるさと再発見の旅”「 路傍におわす野の神々たちと伊那谷の富士信仰とは」が催行されました。南信州はもちろん日本全国どこにでもある石像文化財。南信州には2万を超える石像文化財があるそうです。今回、石像文化財の専門の先生にバスに同乗していただき、双体道祖神や百体庚申、また個性豊かな彩色庚申塔や木曽義仲に関わる石像仏、そして今回の一つのテーマである「富士信仰」に関わる史跡を訪ねました。最後に飯田市美術博物館のトピックス展示「伊那谷の富士信仰と旅」について貴重なお話をお聞きし、実際の展示を観ました。石像文化財も多種多様で、そこにまつわる地域の人々の物語もあり、内容盛りだくさんのツアーでした。
バス出発後、バスの中でガイドの先生から石像文化財の概略を説明いただいた後、12月の朝9時でまだ寒い時間でしたが、まず初めに豊丘村河野の「市の沢の双体道祖神」を見学しました。まさに双体(2体)の素朴な道祖神で、年号は摩耗して全く読み取れませんが、以前の調査から天明4年(1784)に造られた道祖神だそうで、次に訪れる「中平舟久保の双体道祖神」も同年に造られており大変似ているようです。双体道祖神は、「合掌型」「祝言型」「握手型」「握手肩組」「抱擁型」に分かれているそうで、「市の沢の双体道祖神」は男女が酒を組み交わす「祝言型」とのことです。
市の沢の道祖神の後は、市の沢よりも一段上にある「中平舟久保の双体道祖神」を見学しました。中央アルプスを望む大変立地の良い場所にあり、今回は道祖神が朝日にあたって立体感を出していました。市の沢の道祖神と同年(天明4年)に造られており、こちらは男女が握手をしている「握手型」です。ただ、どちらが男性で女性なのか分かりにくく、説明では向かって左が女性、向かって右が男性とのことでした。双体道祖神の「型」のパターンも多様でおもしろいですね。
豊丘村中学校の下、中学校への登り口には、“知る人ぞ知る”見てびっくりの「百体庚申」があります。一箇所にまとまった百十体もの庚申様には圧倒されます。庚申信仰は、中国の道教の教えに基づいているそうです。庚申信仰では、人の体内には三尸という虫がいて、旧暦で60日目に巡ってくる庚申(かのえさる)の日の夜には、この虫が天帝にその人の行った悪事を報告しに行くとされ、それによってその人の寿命が短くなるそうです。そのため、この日は眠らずに猿田彦や青面金剛を祀るというのが庚申講です。ここの百体庚申の中央上部には、文政11年(1828)に大原信富という人が建立した百体庚申の由来が書かれており、それによれば大原信富の呼び掛けにより、近郷諸村の人々が多くの庚申塔を建てて、天帝に感謝し、村人が平和に暮らすことを記念したのがこの「百体庚申」の由来だそうです。
豊丘村の百体庚申に続いて、今度は飯田市下久堅下虎岩の「原の平彩色庚申塔」を拝観しました。今回のツアーの参加者の中に、昔からこの彩色庚申塔を祀り、見守ってこられた方がいましたので、その方から大変興味深い話をお聞きしました。昔は、地元の方々、特に女性の方が毎年2月11日に庚申様の彩色を楽しみながら行っていたが、最近では庚申塔の前にある家族のみで行っており、ここ数年は彩色を行っていないとのことです。以前彩色した庚申塔の写真などもとても興味深く見せていただきました。ツアーのガイドの先生によれば、彩色庚申塔はそれほど多くないが、下久堅地区など竜東に多く残っているそうです。是非、違う機会に「彩色庚申塔」を探してみたいものです。
今回のツアーでは、飯田下伊那に残る木曽義仲に関わる石像文化財を訪ねることが一つのテーマです。飯田市龍江大平地区には、近隣の小木曽さん(約6戸)が大切に守ってこられた木曽義仲に関わる史跡があります。今回特別に小木曽さんのご厚意で少し高台にある大平の薬師堂を開帳していただきました。堂内には、木曽義仲の乳母が持参した「薬師如来立像」が安置されており、平安時代に造られた古仏で最近飯田市の指定文化財に指定されました。その後、義仲の乳母の墓と伝えられる墓(供養塔)を拝観しました。一石五輪塔が大小2基並んでおり、とても古い佇まいで奥ゆかしさを感じました。ご案内いただいた小木曽様、大変ありがとうございました。
COCOROFARMVILLAGEでの昼食後、下條村睦沢の山田河内にある山吹姫(木曽義仲愛妾)の史跡を訪ねました。史跡所有者の小木曽さんも現地に来てくださり、ガイドの原さんの案内でまず山吹姫の墓(京野塚)を見学しました。小高い丘に葺石が葺かれ、まさに昔のお墓といった佇まいです。鎌倉時代に仏教の経典を埋める経塚が多く築かれましたが、「京野塚」といった名称は「経塚」からきているそうです。その後バスで移動し、すぐ下にある山吹姫の一石五輪塔を拝観しました。だいぶ風化が進んでおり、今では読み取れませんが、石面には慶長6年(1601)に山吹姫の子孫とされる朝日受永が造営したことが記されていたそうです。ガイドの原さんから、そもそも木曽義仲の愛妾である山吹姫がこの下條村の山田河内の地に逃れてきた理由について詳しい話があり興味を引きました。山吹姫は、もともと諏訪の手塚氏に出自を持つそうで、その一族が下條村にもいて、その縁故で下條村に逃れてきたとのことでした。下條村の吉岡の近くに「手塚原」の地があり「手塚原の桜」でも有名です。この地が山吹姫の出自である手塚氏ゆかりの地のようです。なるほど!と思いました。
木曽義仲ゆかりの史跡探訪はとりあえず終わり、今回のツアーのもう一つのテーマである「富士信仰」に関わる史跡として、飯田市下殿岡の下殿岡八幡神社にある富士塚を見学しました。境内の一角にこんもりとした土盛りがあり、そこが「富士塚」で「浅間神社」が祀られていました。富士講(氏子)の方が60年毎に土盛りを造り直しているそうです。境内の隣には大江磯吉の生家跡の碑がひっそりと立っていました。
今回のツアーの最後に、飯田市美術博物館で今日まで開かれているトピックス展示を見学しました。展示見学の前に、飯田市歴史研究所の研究員から、江戸時代に飯田出身で富士信仰の布教に努めた松下千代についてお話を聞きました。厳しい身分社会、男尊女卑の江戸時代において、富士信仰(富士教)は男女の平等を解き、社会奉仕などを進めた団体だったそうで、松下千代はその中心として大きな役割を果たしたそうです。
石像文化財というと、普段様々な場所でよく目にしますが、じっくり拝んだり観察することはなく、分からないことばかりでしたが、今回ガイドの先生のお話を聞きながら、多くの新しい発見がありました。特に双体道祖神は、安曇野にしか無いと思っていましたが、南信州にも多くの双体道祖神があることは驚きでした。しかも5種類ほどの「型」があり、その分類や年代を考えたりすることも面白く、あるいはその素朴な姿に心を癒されることもありました。また、まだまだ良くわからいことが多いものの、「庚申信仰・庚申講」に基づく「庚申塔」も道教の不思議な思想と相まって興味深く感じました。木曽義仲の愛妾や乳母ゆかりの石像文化財は多くの謎に包まれており、知的好奇心をくすぐられます。富士信仰は石像文化財と少し離れますが、日本人の昔からの古い信仰と結びており、その富士信仰・富士教の中心に飯田出身の松下千代という女性がいたことを地元の方々にもっと知ってもらいたいと思いました。
石像文化財の数は南信州に2万を超えると言われ、多くの興味深い石像文化財がありそうです。今後も引き続き、石像文化財を訪ねるツアーを行っていきたいと思いますので、その際は是非ご参加ください。今回は、多くの方にご参加いただき大変ありがとうございました。
Staff ゆっきー