現地からのレポート

期間限定

南信州の関所・番所シリーズ①(10/15)催行報告

南信州の関所・番所シリーズ①(10/15)
「期間限定」に関するレポート

令和31015()に、南信州ふるさと再発見の旅「南信州の関所・番所シリーズ①」が催行されました。
江戸時代、幕府が管轄する53箇所の関所・番所のうち、南信州には清内路関所、小野川関所、浪合関所など8ヶ所もの関所・番所が集中しています。今回、関所・番所シリーズ①として“清内路街道、三州街道”沿いにある関所・番所を巡りました。
ガイドとして、関所・番所をはじめ、飯田下伊那地域の歴史の大変詳しい山内先生にご案内をお願いしました。

まだ寒い時間でしたが、皆さん熱心にガイドの方のお話に耳を傾けていました。水戸天狗党の通行の際に、関守として藩の意向に沿って浪士の通行を許可しながら、通行を許したことで藩から切腹の命を受けて命を落とした斎藤長左衛門さんの話など詳しく伺いました。

古代東山道以来、古より園原、網掛峠を越えて駒場に至る街道を管理した関所で、関所があったことを示す「関」の文字の刻まれた石臼など興味深いものでした。

三州街道の重要な関所として、武田信玄も重視した関所で、関所跡付近には、三州街道の古道を感じさせてくれる佇まいが印象的でした。関所の管理にまつわる阿島知久氏と阿島傘の話も興味深くお聞きしました。

天正10年3月、武田氏討伐のため信州に攻め入った織田信長は、浪合にて武田勝頼・信勝父子の首実検を行いました。武田氏の家臣であった浪合備前が織田軍の侵攻により下條村の小松原に逃避し、その屋敷跡に信長は陣を敷き、首実検を行ったと考えられます。
後醍醐天皇の孫で、宗良親王の子である尹良親王が浪合で戦死し、浪合神社境内に親王の墓があります。宮内庁の管理で、浪合神社の帰路に親王を守って戦死した南朝方武将の墓「培塚」も車窓でしたが見学しました。

根羽村の信州・三河境にあり、自然薯料理や手打ち蕎麦そばで人気の店。愛知県方面からのお客様で大変賑わっていました。じねんじょ定食をご賞味いただきました。

武田信玄は、元亀4年(天正元年、1573年)に遠州三方ヶ原の戦いで徳川家康を撃破した後、病気が悪化し、三河から根羽、平谷、浪合、駒場のどこかで亡くなりました。その終焉の地は諸説ありますが、根羽村の横畑(旗)地区にある「信玄塚」はその史跡の一つです。根羽村終焉地の説は「甲陽軍鑑」「熊谷家伝記」などに記載されています。

天正10年(1582年)、織田信長の軍勢は武田氏討伐のため、南信濃に攻め入りましたが、武田氏の信濃先方衆である下條氏は、織田軍を迎え撃ち「滝澤城」で織田軍と戦いました。しかし、居城の吉岡城において、一族の家臣が裏切り、織田方に勝手に寝返ってしまったため、下條信氏、信正父子は三河に逃れました。また浪合関所は、戦国時代~江戸初期は平谷村側の「とつばせ関所」にあったようです。

地元の若いガイドの方の案内で、旧駒場宿で古民家再生に取り組んでいる呉服屋を活用した「つぼや」や旧銭湯の「玉の湯」などを見学しました。その後、坂道になっている旧三州街道の途中にある「あふちの関跡」を見学しました。「あふちの関」は、古代から中世にかけて和歌などに詠まれているものの、実態は不明な点が多いようです。

今回は、南信州に数多く残る関所・番所を巡りました。全部で8箇所以上もあり、全部を一日で巡ることは難しいため、2回に分けて行いました。知っているようで知らない関所・番所を巡り、新たな発見があったのではないでしょうか?来年になるかと思いますが、心川関所、帯川関所など残りの関所・番所を巡るツアーを企画、実施して参りますので、その際は是非ご参加ください。

今回は、多くの方にご参加いただき大変ありがとうございました。

Staff ゆっきー

期間限定一覧へ戻る

Page Top