京極高知、脇坂安元、小笠原秀政~「関ヶ原の戦い」に参陣した三人の飯田城主~(2/3)催行報告
令和6年2月3日(土)に、「京極高知、脇坂安元、小笠原秀政~「関ヶ原の戦い」に参陣した三人の飯田城主~」が催行されました。
戦国時代末から江戸時代初期にかけて、飯田城主となった戦国武将として、京極高知、小笠原秀政、脇坂安元の三人が知られています。実はこの三人、慶長5年(1600)9月に起きた天下分け目の「関ヶ原の戦い」に深く関わっています。特に京極高知と脇坂安元は、関ヶ原の戦いの地で大きな役割を果たしており、小笠原秀政は関ヶ原の戦いに直接参陣していませんが、この戦いのきっかけとなった会津の上杉景勝軍の押さえとして、宇都宮城を家康次男の結城秀康の配下で活躍しました。
今回のツアーでは、特に飯田下伊那地域では余り知られていない武将・京極高知について、また近江源氏の名門として中世日本の歴史に重きをなした佐々木・京極氏歴史について理解を深める目的でツアーの始めに講演会を行いました。講師には、佐々木・京極氏の本貫の地である滋賀県米原市にある伊吹山文化資料館の髙橋順之先生をお招きし、佐々木・京極氏の歴史や史跡について大変中身の濃い、またボリューム満点のお話をお聞きしました。
講師の髙橋順之先生は、今回の講演会のために114ページもの膨大なパワポ資料を作成してくださいました。資料だけでもとても貴重なものですが、先生の講演の話は、とても詳しく、また熱心にお話いただき、皆さん話の内容にどんどん引き込まれました。1時間40分という比較的長い講演時間でしたが、長さを全く感じさせない興味深い内容でした。京極氏は、長野県の南部に住む私たちには縁が遠い存在でしたが、この講演をきかっけにとても身近に感じ、実際に滋賀県にある京極氏の史跡を訪問してその歴史を学びたいと感じました。髙橋先生には、遠くまでお越しいただき、誠にありがとうござしました。滋賀県の湖北地方には、京極氏以外にも飯田城主であった脇坂氏発祥の地もあり、関ヶ原の合戦の地とともに訪れるツアーを企画したいと思いますので、その際は髙橋先生にご案内を是非お願いしたいと思います。
三人の飯田城主のうち小笠原秀政は、関ヶ原の合戦の翌年、慶長6年(1601)に宇都宮城での会津の上杉軍牽制の功績により、関東の古河城主から旧領(松本)に近い飯田城となりました。秀政の正室である福姫(登久姫)は、松平信康(徳川家康長男)と五徳姫(織田信長長女)の間の長女。稀有な血筋の姫と言えますが、32歳の若さで疱瘡にかかり飯田城で亡くなりましたが、二人の間には、8人の子ども(6男2女)が生まれ、その子孫は稀有な血筋を持つ一族として繁栄しました。惣領家としては北九州小倉藩小笠原家15万石が続きますが、次女の千代姫(保壽院)は、2代将軍徳川秀忠の養女として熊本藩細川家52万石の大大名の正室となりました。千代姫輿入れの行列の詳細な記録が「小笠原秀政年譜」に記されています。飯田城から江戸(将軍秀忠の歓待)→駿府(大御所・徳川家康の歓待)→大阪(豊臣秀頼の歓待)→九州中津城までの行程で、将軍秀忠の養女としての輿入れの厳かな様子がよくわかります。
今回は、福姫様の墓所を拝観させていただき、また庫裏にてお茶をいただきながら、福姫様や娘の千代姫様に関するお話の場をご提供いただきました峯高寺様に厚く御礼申し上げます。
砂払温泉での昼食の後、すぐ近くにある阿弥陀寺に伺いました。ご住職から千体仏観音堂と脇坂安元・安政父子との関わりについて詳しいお話をお聞きしました。また、寺の山門が阿弥陀寺の本堂とずれており、千体仏観音堂に真っすぐの位置にあるのは、この山門は千体仏観音堂の山門として造られたものであること、またそれ以後に山手にあった阿弥陀寺が千体仏観音堂の右隣に移され、飯田藩主・堀家から千体仏観音堂を守るよう阿弥陀寺に命じられたとのことでした。なるほど!と思いました。千体仏観音堂は、年1回だけ御開帳されるそうで、今回ツアーのために特別に内陣を開けていただきました。誠にありがとうございました。内陣の千体仏の多さにも圧倒されますが、内陣の格天井(ごうてんじょう)に描かれた花の模様(菊花?)や梁や蟇股などの見事な古建築には感動しました。ご住職様、誠にありがとうございました。
大宮神社のすぐ右隣にあり、飯田藩主(脇坂家・堀家)の菩提寺として格式の高いお寺で、ご住職からお寺の歴史をお聞きしました。長久寺は、昭和22年の飯田大火の際には、焼失を免れており、本堂や庭園など昔ながらの面影を留めているそうです。本堂の御本尊様の前には、1年前の飯田市美博の企画展で展示された脇坂氏寄進の茶道具である風炉釜を今回特別に拝見することができました。また位牌堂にご案内いただき、飯田城主・脇坂安元や堀家代々の位牌を特別に拝観させていただきました。ご住職様から寺の歴史に関する貴重なお話をお聞きし、また貴重な風炉釜の拝見や位牌堂の拝観など、この度は誠にありがとうございました。
長久寺を拝観した後、すぐ上にあり飯田市史跡に指定されている「飯田藩主・堀家墓所」をガイドの清水さんの案内で拝観しました。だいぶ急な石段を登りきると、すぐ右側にひと際大きく立派は宝篋印塔が目に入りました。ガイドの清水さんからこの宝篋印塔が飯田城主・毛利秀頼の墓(宝篋印塔)であると伝えられているとの話をお聞きしました。毛利秀頼は、織田信長と豊臣秀吉の家臣として仕え、飯田城主となりましたが、彼の死後は娘婿の京極高知が飯田城主を引き継ぎました。飯田堀家の墓所は、正面に堀親蔵(6代藩主)、右側に堀親義(11代藩主)と堀親民(9代藩主)の墓を中心に整備されており、堀親蔵の後を継いで飯田藩主(7代)になった堀親長が墓所の整備に深く関わっていたと考えられています。堀家墓所から右側の塀をくぐると、脇坂安元の墓(五輪塔)が特別に一区画としてありました。脇坂安元は、今回のツアーのテーマ「関ヶ原の戦いに参陣した三人の飯田城主」の一人です。
飯田市中心市街(通称:丘の上)の多くの寺が昭和22年の飯田大火で焼失しましたが、正永寺は焼失を免れ、大正初年に建てられた見事な仏殿様式の本堂が残っています。ご住職の案内で、本堂の内陣を拝見しました。ご本尊である虚空蔵菩薩像の前の天井画には、お釈迦様と四天王(多聞天または毘沙門天・増長天・広目天・持国天)の絵が描かれており、その周囲には禅宗の開祖・達磨大師とその弟子・慧可との出会いの場面を描いた「慧可断臂図(えかだんぴず)」など禅宗の教えを説いた彫刻をご紹介いただきました。また、飯田大火の際には、“避難所”としての役割をしたこと、大正初年の本堂建築の際には、新潟県から部材を運び、3mもある軒瓦を屋根に載せる時の苦労話など興味深いお話をいただきました。ご住職様にはご多用の折、誠にありがとうございました。
豊臣政権下で飯田城主となった京極高知は、惣堀(外堀)を築き、飯田城だけでなく城下町を丸ごとすっぽり取り囲む形態の城と城下町(「惣構え」と呼ぶ)を築きました。正永寺など飯田城から離れた場所にあった多くの寺院が惣堀(外堀)の内側に移転・配置され、ある意味、敵の攻撃を防ぐ役割を寺院が担ったとも言われます。ガイドの清水さんの案内で、正永寺の裏側には道路になっていますが、通りが惣堀跡で、隣接する黄梅院前を経由して柳通りまで惣堀(外堀)跡を歩きました。
ツアー最後の訪問地として飯田市松尾にある鳩ヶ嶺八幡宮を参拝しました。伊原宮司さんの案内で拝殿に上がらさせていただいた後、本殿(飯田市有形文化財)に鎮座する主神・誉田別尊命(ほんだわけのみこと)、息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)、竹内宿禰命(たけのうちすくねのみこと)を祀る本殿正面にご案内いただきました。主神である誉田別尊命像(重要文化財)は、公開されていない大変貴重な御像ですが、その近くまでご案内いただいたのは、なかなか普通無いことで、とても有難いことでした。心より御礼申し上げます。その後、社務所で伊原宮司さんから神社の由緒や歴史についてお聞きした後、小笠原秀政が先祖以来、特に崇拝してきた鳩ヶ嶺八幡宮(昔は旧村名から嶋田八幡社と呼ばれた)の復興の際に残した棟札や脇坂家と堀家が奉納した鷹の絵馬など貴重な宝物を拝見しました。
伊原宮司様をはじめ、総代の皆様、この度は、貴重な場所や文化財を拝見させていただき、誠にありがとうございました。
「関ヶ原の戦いに参陣した三人の飯田城主」とのテーマで実施した今回のツアー。三人の城主の中でも京極高知や京極氏の歴史に関する講演会を開催しましたが、講師の髙橋先生の詳しいお話をお聞きし、京極氏に関する理解を深めることができたのではないでしょうか。また、三人の飯田城主の史跡を訪ねると言ってもなかなか残っているものも多く中ではありますが、各城主と深く関わった市内の古刹を訪ね、またご住職から詳しいお話をお聞きすることができ、飯田城主について理解を深める内容の濃いツアーになったのではないかと思います。今回、京極氏についても学びましたので、京極氏の本拠地である近江国、現在の滋賀県を訪れ、またできれば関ヶ原の戦いの陣跡巡りも含めて飯田と各地の結びつきを考えるツアーを実施できれば良いと思っています。
伊吹山文化資料館の髙橋順之先生、また各寺院のご住職様、宮司様・総代の方々、誠にありがとうございました。
そして最後になりましたが、今回は、多くの方に当ツアーにご参加いただき、誠にありがとうございました。
Staff ゆっきー