南信州山城物語~“伊那源氏”片切氏と一族の居城を訪ねる~(11/19)催行報告
令和5年11月19日(日)に、「南信州山城物語“伊那源氏”片切氏と一族の居城を訪ねる~船山城・大島城・飯島城・赤須城~」が催行されました。
毎年11月の下旬、南信州の山城を訪ねるツアー「南信州山城物語」を実施しています。今回は、“伊那源氏”“信濃源氏”として知られ、伊那谷では名族として知られる「片切氏」に焦点をあて、その一族が築いた山城を訪ねるツアーです。片切氏は、惣領家である片切氏、そしてそこから分派した大島氏、飯島氏、赤須氏の山城の特徴は、天竜川の河岸段丘または断層地形の舌状台地に、各郭が縦状に連なる“連郭式”の平山城であることです。専門ガイドの酒井さんや各所の山城保存に関わる人々の案内で4カ所の山城を訪ねました。
飯田市の「りんごの里」から中央道経由で一挙に駒ヶ根市に向かいました。駒ヶ根市在住の宮脇先生の案内で、縄張り図をご覧いただきながら探訪しました。堀切や土塁が良く残されており、連郭式山城の構造を確認することができました。素晴らしい山城であると痛感しました。赤須氏の歴史も探ってみたいと思いました。
片切氏一族の中でも惣領家である片切氏を凌ぐ勢力を誇った飯島氏の居城。城域はとても広く、天竜川に望む「城山地区」を飯島町教育委員会の丸山係長の案内で訪れました。全域が田んぼになっていますが、丸山係長の話では、田んぼとして利用され、開発が行われないことが城の保存に役立っているそうです。天竜川に望む突端の城山と古城の間にあるとても深い堀切「古城窪」のスケールの大きさには驚きました。こうした巨大な城域を考えると、城主である飯島氏が領民を酷使して自身の城を築かせたと考えるよりも、領民が戦国の混乱時に敵の来襲など“いざという時”に避難し、立て籠もる避難場所と考える方が妥当なのではないかとの丸山さんの話にはとても納得させられました。また、飯島氏は、織田軍の伊那谷侵攻(武田討伐)の際に、仁科五郎信盛とともに高遠城の戦いで戦死したそうですが、一族はその後江戸時代を生き抜き、現在まで続いているそうです。
飯島城跡を見学した後、中川村の望岳荘にて「松花堂弁当」をご賞味いただきました。
片桐氏惣領家の本城で、段丘の舌状台地に築かれた「連郭式」の平山城です。突端部分は、戦国の動乱を反映して、深い堀切と土塁で仕切られた防御を意識した構造になっていますが、そこは訪ねる上で危険を伴うため今回は行きませんでしたが、ガイドの酒井さんの片切氏に関するお話を聞きながら片切氏の歴史に想いを馳せました。また、隣接する御射山神社を訪れ、御柱祭りで建てられた見事な御柱も見学しました。
最後の目的地である伊那大島城跡を訪ねました。最初、武田流縄張り術の最高傑作とも呼ばれる「三日月堀」を見学しました。この城の「三日月堀」の特徴は、三日月状の堀の中に三日月状の土塁が設けられていることで、大変珍しいものだそうです。続いて三日月堀と対をなす「丸馬出」を通って城内に入りました。土塁と堀切が見事で、最後に天竜川に望む本郭を見学しました。この本郭は、元々片切氏一族の大島氏が築いた城郭部分とのことです。そこに武田氏が伊那谷に侵攻し、南信濃の拠点として二の丸、三の丸、そして丸馬出と三日月堀へと拡張されました。
今回、山城に詳しいガイドさんの案内で片切氏一族の山城を訪ねました。片切氏に限らず、伊那谷に築かれた山城の特徴は天竜川の段丘の舌状台地に築かれており、今回改めとその特徴を体感することができました。また山城の探訪とともに、「春近衆」と呼ばれた片切氏一族の歴史について詳しい話をお聞きすることができました。
来年度も11月に、別のテーマと視点から南信州の山城を訪ねるツアーを企画したと思いますので、その節はご参加いただけると誠に有難く存じます。
今回は、多くの方に当ツアーにご参加いただき、誠にありがとうございました。
Staff ユッキー