飯田城主・坂西氏の謎に迫る(10/1)催行報告
令和5年10月1日(日)に、「南信州・中世の名族探訪シリーズ⑧飯田城主・坂西氏の謎に迫る」が催行されました。
「南信州・中世の名族探訪シリーズ」として令和2年10月に「片切氏」を取り上げて以来、小笠原氏、知久氏、下條氏などに焦点をあててゆかりの地を訪ねてきました。中世の名族の中でまだ取り上げていなかったのが「坂西氏」です。坂西氏は、中世において飯田郷の領主として、また飯田城主として知られていますが、戦国時代に滅亡したため史料も少なく、またゆかりの地も限られており、今まで坂西氏を取り上げるツアーの実施に躊躇してきました。ところが、小笠原氏の先鋭的な研究者であり、坂西氏に関する論文も発表された花岡康隆先生が長野県立歴史館の研究員として在籍されていることを耳にし、是非とも花岡先生に飯田にお越しいただき、坂西氏について講演をしていただこうと思いつきました。今回多くの方に当ツアーにご参加いただき、花岡先生の講演を中心に坂西氏の実像と謎に迫るツアーを実施することができました。
最初は坂西氏の居城である飯田城跡です。飯田城や城下町に詳しい今村光利さんにご案内いただきました。中世の飯田城は、現在の三宜亭のある山伏丸付近に城があり、そこからは四方の眺望が良く、城として最適の地だったようです。但し、江戸時代の飯田城は、城下町が建設され、飯田下伊那の中心でしたが、それ以前は松尾城の小笠原氏や龍東の知久氏などの城や城下町の方が先進地で、坂西氏の飯田城はそれほど重要視されていなかったのかもしれません。
いよいよ当ツアーのメインである花岡康隆先生による坂西氏の講演会です。先生は、今回のツアーでの講演会のため、膨大かつ詳細な史料とパワーポイントをご用意してくださり、分かり易い説明で坂西氏について理解を深めることができました。江戸時代の書物には、源平の合戦の頃、源義経とも係わりがあった近藤六郎周家が飯田に土着し、その一族が阿波での旧名から「坂西氏」を名乗ったと書かれているものもありますが、花岡先生の説明から、坂西氏は南北朝初期に信濃守護職に任じられた小笠原貞宗の子息・宗満を祖とする小笠原氏の一族であること、しかも小笠原氏一族の中でもトップクラスの位置を占めること、また小笠原氏が松本(府中)小笠原氏と飯田(松尾・鈴岡)小笠原氏に分裂する中で、深志郷の坂西氏と飯田郷の坂西氏に分かれていたことなど詳細なお話を聞くことができました。
坂西氏は、上飯田の「松原宿」に土着した後、現在の愛宕神社が鎮座する場所に「飯坂城」を築き居城としましたが、そこが手狭になったため、現在の飯田城の三宜亭のある場所(山伏丸)と飯坂城を交換し、飯田城(山伏丸)に移ったと伝わります。飯田城の案内に引き続き、今村光利さんから飯坂城や愛宕神社に関わる様々な話をお聞きしました。
飯田松川の妙琴公園上にオープンした「ホテル風の山」。そのフレンチレストラン「ベルグウィンド」にて豊丘村の銘柄豚「信美豚」のグリルをご賞味いただきました。とても美味しい豚肉で大変好評でした。
安土・桃山時代、飯田城主となった京極高知は、各寺院を飯田城外堀の内側に集住させましたが、坂西氏の開基になる正永寺も江戸町に移されました。ご住職の案内で大正時代に建築された立派な本堂内陣を拝観しました。飯田下伊那では大変珍しい、二重屋根の仏殿様式の本堂で、内陣の欄間などに描かれた見事な絵画や彫り物などご案内いただきました。内陣の横柱に見られる「釘隠し」には、小笠原氏の家紋である「三階菱」があしらわれており、坂西氏が小笠原氏分流であることを示しているように思われました。
飯田市のシンボルである風越山の山頂の鎮座する白山社奥社本殿。室町時代の永正6年(1509)の棟札に「大旦那」として坂西氏の名前が記されており、坂西氏が本殿の建設に深くかかわっていたことがわかります。平成16年~17年に行われた文化庁による大規模な修理工事について、修理を担当した飯田市文化財活用課の方から貴重な話をお聞きしました。
「南信州・中世の名族探訪シリーズ」の8回目のとして取り上げた飯田城主・坂西氏。史料が少なく、多くの謎を秘めた一族ですが、長野県立歴史館の花岡康隆氏をお招きして坂西氏に関する講演会を実施しました。講演を聞いて、小笠原氏の分流としての坂西氏としての認識が深まりましたが、一方で、江戸時代の史書に書かれた四国阿波国から飯田の地に移ってきた近藤六郎周家を坂西氏の祖とする説との関連性については謎が深まりました。坂西氏は中世の時代に飯田城主として飯田の地を治めたという大事な一族ですが、今回のツアーをきっかけに坂西氏に関する関心が高まって、今後、そのゆかりの地や歴史を訪ねるきっかけになれば良いと思います。今回は、多くの方に当ツアーにご参加いただき、誠にありがとうございました。
Staff ゆっきー